曹洞宗北大寺



 

参禅会

参禅会
曹洞宗 sotozen-net より
坐禅とは、文字の通り、坐る禅ということです。禅とは、梵語で「ドゥフヤーナ」という言葉に音を表わす「禅」という文字を当てたものです。意味の上からは、定(じょう)とか静慮(じょうりょ)とか、思惟修(しゆいしゅ)などと訳されます。物事の表面の姿、形に執らわれて、好き嫌い、善し悪しの心の動きがあってはできません。このように、環境の事象にとらわれることなく、真実の在り方を見極め、対処して行くことを解脱(げだつ)ともいいます。この解脱の道を体得し、体解(たいげ)するのが禅の真義なのです。
座禅

 

参禅会
坐禅の起源
学説では、禅の発祥は紀元前3000年~2000年インダス文明期のインドという説が有力です。
また、禅という言葉の源流はインドのヨーガで、文献上出てくるのは紀元前1200年頃といわれています。
お釈迦様と坐禅
お釈迦様の年代には諸説があり、紀元前500年頃と考えるのが一番穏当ですが、日本では紀元前463-383(中村 元説)が有力な説とされています。
その頃の修行者はヨーガか苦行を行うのが一般的でした。様々な技法を持つヨーガの中で、お釈迦様は禅の語源である「ドゥフヤーナ」を選びました。29歳の時出家され 35歳で覚(さとり)をひらかれたと考えられますが、苦行からだけでは本当の悟りが得られないことを感じ、一人で
坐禅に入ったといわれています。
道元禅師が説いた曹洞宗の坐禅。只管打坐(しかんたざ)
道元禅師は自分の伝えた坐禅こそが達磨(*摩)大師を通じてお釈迦様に直結する、つまり仏教の
正門だと考えました。坐禅こそが仏教の正しい門だと確信したのです。それが形となったのが只管打坐で、ただひたすらに坐禅に打ち込む姿なのです。その姿こそが仏の悟りの表れであって、坐禅によって仏になるのではないのです。曹洞宗では日常生活のあらゆる行動が修行であるという考え方ですので、食事や入浴など生活のすべてが修行で、その中心に坐禅があるのです。

*註:『達磨(*摩)大師』の【磨】の字は古くは【摩】の字が用いられていました。
北大寺の坐禅、参禅会
道元禅師が定めた「普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)」と瑩山禅師が定めた「坐禅用心記
(ざぜんようじんき)」に則った坐禅をしています。40~45分程坐り 経行(きんひん)といって15分程静かに歩いて再び坐ります。これが基本で、作法そのものは修行者も一般の参禅者も同じです。なお、最初に「坐禅のすすめ」「般若心経」「普勧坐禅儀」を解説したパンフレット等をお渡しし、禅の歴史、曹洞宗の禅に対する考え方をお話します。禅の作法や最も肝心な呼吸についても学んで頂きます。
宗派を問わない北大寺の参禅会
道元禅師が中国から帰国して最初に著したのが「普勧坐禅儀」で普勧とは、普く勧めるという意味です。あらゆる人に坐禅を勧めたいというのが道元禅師の考え方で、その精神を引き継いでおります。
坐禅を通して参禅者に伝えたいこと
道元禅師は、自分の信ずる坐禅によってあらゆる人を救いたいという信念に燃えておりました。精神を集中し、自己を修める。様々な問題を抱えざるを得ない今日、坐禅を通してそれが広がっていけば、少しでも世の中が良くなっていくはずとの思いです。宗派を問わず、禅で自らを究明していく理由はそこにあります。自らの悩みや不安を少しでも軽減解消し、それらから開放されるとともに大いなる慈悲の心を培って社会に対応するためでもあります
坐禅を経験していただきたい
お寺が日常生活から遠のいてきた現在、核家族化が進み更に個人の価値観が多様化して
おります。ですが「慈悲の心」はどんな時代にあっても必要な心の有り様です。坐禅を通してそれを育んで頂ければと願っています。一度でも坐禅を経験すれば、きっと感じるところを見出していただけると思います。北大寺の参禅会では見学者も歓迎しております。

ただいま、参禅会はお休みしております。